このページは、私の好きな法語を集めてみました。仮名遣いは現代語表記に改め、頁数は註釈版聖典の頁数です。
■ 釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯い恵むに真実の利をもってせんと欲す
なり。ここをもって如来の本願を説きて経の宗致とす、すなわち仏の名号をもって経の
体とするなり。(教文類135頁)
■ たとえわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲いて、乃至
十念せん。もし生ぜずは正覚を取らじ。ただただ五逆と誹謗正法とをば除く。
(『大経』18頁)
■ あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したま
えり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と
誹謗正法とをば除く。(『大経』41頁)
■ 「唯除五逆誹謗正法」というは、「唯除」というはただ除くという言葉なり。五逆の罪
人をきらい誹謗の重きとがを知らせんとなり。この二つの罪の重きことを示して、十方
一切の衆生みなもれず往生すべしと知らせんとなり。(尊号真像銘文644頁)
■ 凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、
そね み、ねたむ心おおくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、
きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。(一念多念文意693頁)
■ 煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界はよろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まこと
あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。(歎異抄854頁)
■「聞」というは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり。
「信心」というは、すなわち本願力回向の信心なり。(信巻251頁)
■ 真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚の位に住す。このゆえに臨終待つことな
し、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。(御消息735頁)
■ 声に姿はなけれども 声のまんまが仏なり 仏は声のお六字に 姿を変えてわれに来る
(高松悟峰和上)
■ 引く足も 称える口も拝む手も 弥陀願力の不思議なりけり(寂如上人)
■ 横超とはすなわち願成就一実円満の真教、真宗これなり(信巻254頁)
■ 一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず念念に捨てざるは、
これを正定業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆえなり。(七祖463頁)