「蒔かぬタネは生えぬ?」

 現在、私たちは科学技術が非常に発達した時代に生きており、ともすれば科学技術はどんな難問にも答えを出してくれるかのような錯覚にも陥っています。しかし、どれだけ科学技術が進歩しようとも解決できない問題は山ほどあります。とりわけ人間の心の問題に関しては、科学技術は無力と言ってもよいのではないでしょうか。そんな人間の心の問題を解決するヒントになるのが仏教ではないでしょうか。

 仏教の教えの一つに「縁起の道理」があります。世の中のすべてのものは縁起の道理によって説明できます。縁起の道理に合わない事象はありません。奇跡によって生じたものはないのです。

 お寺の境内に小さな花畑があります。そこに植えた覚えのない万両が芽を出し、小さな花を咲かせました。妻に尋ねると、それは小鳥が運んできたものでしょう、と言うのです。あちこちを自由に飛び回っている小鳥が、どこかで食べた万両の実、食べたところで種を出さずにお寺の境内の花畑で出したのだと思います。それがいつしか芽を出し、ついに花が咲いたのです。結果として万両の花が咲いたのは、原因があったからで奇跡的に咲いたのではありません。どのような事象にも必ず原因があることを、仏教では縁起の道理というのです。

 私は9人兄弟です。生まれた家はお寺ではありません。しかし、幼い頃から何か仏縁を感じることがありました。学校を出て石油会社に就職して、企業戦士と呼ばれるモウレツなサラリーマンでした。ところが45歳頃に長兄、母、父の順に3人の肉親と死別を経験しました。その頃から60歳まで会社勤めを全うして、後は余生を過ごすという生き方に疑問を持ち始めたのです。そんなとき一つの生き方として見出したのが僧侶になることでした。

 僧侶になることは決して自分が思いついた道ではなかったのです。約40年前に亡くなった母方の祖父、そして21年前に亡くなった父は、いずれも本願寺派の僧侶でした。二人がお浄土から私に「仏道を歩みなさいよ」と呼びかけてくれていたのです。思えばほかにも子供のころ、日曜学校で教えてくれたお坊さんも、同じように「仏法を聞きなさいよ」と呼びかけてくれていました。そんな先人たちが一様に、私を仏教に生きるようにと導いてくれたのです。仏道を歩み始めて、その呼びかけの根源には阿弥陀さま、そして親鸞さまがいてくださったことに気づきました。

 自分で思いついた道ではなく、自然に必ずそうなるように、私の心の中に種が蒔かれていたのです。それが芽を出したのが45歳頃だったということです。

 人は必ず遇うべきものには遇えるようになっていると言われます。ただ遇っていても感性が磨かれていないと気づかないかもしれません。私たちは、気づくか、気づかないかにかかわらず、いつも阿弥陀さまや親鸞さまから「お念仏とともに、力一杯生き抜きなさい」と呼びかけられているのです。そのことにいち早く気づいて、お念仏とともに生き抜かせていただきましょう。

 

「仏法聴聞は食事と同じ」

 行信教校の利井明弘先生は面白い人だった。先生は「仏法聴聞は、食事と同じや。何を食べたか覚えんでも、食べるだけで栄養は身に付く。仏法聴聞も同じで、聞いたことを覚えなくてもええ。聞くだけでええのや」と。そのことを善導大師は「餐受の心」と言っている。これは何を聞いてもすぐに忘れてしまう私には、本当にありがたい言葉だった。「10日も食べなんだら死ぬで。お念仏もそうや。10日もせなんだら、心が死ぬと思え。心が死ぬと、あいつが悪い、わしが正しい、なんて言い出すのや」と。ほんまやなあ。覚えんでもいいから、もっと仏法聴聞を続けなあかんで。