親鸞聖人が開かれた浄土真宗は、阿弥陀如来の本願によって生きとし生けるものすべてを平等に救いとるという本願力(他力)回向の教えです。
この本願のこころは真実の教えである『大無量寿経』に明かされています。つまり、私たちは愛憎の荒波に翻弄されて苦悩の渕に沈みつつある存在でありながら、常に真実に背を向け続けながら生きています。そんな私たちを救うために、阿弥陀如来は真実のさとりの世界から現れて、願と行を積んで、智慧と慈悲を円かに備えた光明無量・寿命無量の仏となられ、願力をもって私たちを救われるのです。このすべてのいのちあるものを摂めとって捨てないという大悲の本願の通りにはたらいているのが本願力であり、南無阿弥陀仏の名号なのです。阿弥陀如来はその名号の功徳を諸仏方に讃えさせ、私たちに本願のいわれを聞かせて、これを信じさせ称えさせ、浄土で如来と同じさとりを開かせようというのです。
このように阿弥陀如来の本願の起こりとその結果であるはたらき、つまり名号のいわれを説きあらわしたのが『大経』なのです。この『大経』を依りどころとして、インド・中国・日本に出られた龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信和尚・法然聖人の七高僧は、釈尊がこの世に出られた本意を顕し、阿弥陀如来の本願が末代の凡夫である私たちに最も相応していることを明らかにされたのです。これらの経典と七高僧の導きによって、親鸞聖人は「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」という浄土真宗の教法を敬信されたのです。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんと思いたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」(『歎異抄』)といわれるように、私たちは、釈尊が『大経』で讃嘆されている本願のいわれを聞いて信じんをいただいたときに仏となる身に定まり、お念仏を相続してこの世の命が尽きると同時に浄土に往生して仏と同じさとりを開かせていただくのです。そして成仏と同時に、大慈悲心をもって他のいのちあるものすべてを救うという利益が与えられるのです。
阿弥陀如来の本願は、もともとすべてのいのちあるものを救おうという平等の救いではあるが、ことに苦しみ悩んでいるものを目当てにしていることを、続いて同じく『歎異抄』には「弥陀の本願には、老少・善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし。そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」とあり、ここに悪人正気と信心が正因という浄土真宗の特色がみられます。
この如来の大悲を聞いて信じ喜ぶ身になっても、凡夫の迷いの身がすぐにさとりの身になるのではありません。この世に生きている限りは、人間としてのさまざまな苦悩はなくなりませんし、罪悪の身も少しも変わりません。しかし如来の摂めとって捨てないという光につつまれ、浄土に向かう人生へと転じられるのです。
これによって、一切の迷信俗信に惑わされることなく、どのような苦難にあおうとも、それを乗り超えていく力が恵まれるのです。お念仏は如来の大悲につつまれた満ち足りた喜びを感謝する声であり、またわが身を省みる慚愧の声でもあるのです。このようにして、如来の大悲の本願を依りどころとするお念仏の人生は、安らかな喜びの中にあって、自己中心的な生き方を見つめ直し、如来の大悲が注がれているいのちあるすべてのものに共感する御同朋・御同行の歩みへと展開するのです。